永享6年(1434)平田義国が将軍足利義教の命による比叡山山法師撃退の功績に、伊勢の国奄芸、鈴鹿、三重郡にわたる所領を授けられ開善寺に築城。
次いで4代目平田直隣が応仁元年(1467)天下の乱れを見て、城を開善寺より鈴鹿川南岸の枚田郷平田に移し、鈴鹿川から水を引き水田開発を行うため新たな城を築いた。これが平田城である。
その後、8代目平田賢元は永禄11年(1568)織田信長に攻められ、城将 弓削玄蕃・稲生外記、助勢に来た鹿伏兎主馬らと必死に城を守ろうとしたが力及ばず。数百人の家来とともに賢元も戦死。平田城は落城した。
この時、嫡子の9代目平田元網は三百余人を引き連れて城を脱出している。折を見て報復の機会をうかがったが、天正8年(1580)病のため50歳でこの世を去った。
初城主 | 平田直隣 |
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区分 | 平城 |
遺構 | 土塁・掘 |
標高 | 22m |